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Ⅷ 月下美人と悪魔な賢者 + 8 +

last update Fecha de publicación: 2026-11-02 14:06:43

   * * *

「餞別に、むかしの話をしてやろうぞ」

「むかし?」

 イデアにコンスタンティノープルへ向かうと言われたのはつい先ほどのことだ。泳がせていたザイードが勝手に動き出してしまったと申し訳なさそうに報告され、事態が急展開したことを知った。

 ダヴィデは今朝、グーリーと大修道院に付属している図書館に寄ると言って明け方エーヴァを愛したっきり帰ってこない。イデアはイデアでマイヤを説得しに行ってしまい、エーヴァはひとり手持無沙汰な状態だった。

 そんなときに現れたのが、臙脂色の瞳のエヴァンジェリン妃だ。

 物音を立てずにエーヴァが過ごす部屋へ入ってきた老女は、唐突にむかし話を語りだす。

 かつてルクリエンテ公の白銀の姫君として愛されてきた彼女には、もうひとりの白銀の姫君がいた。

「おなじ母親の胎から生まれたというのに、十も年下の妹は弱々しくて、放っておいたら死んでしまうような子どもじゃった。だが、わしがかつて持っていた鉛色よりも輝かしい、銀

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       * * * 「その髪、染めているんでしょう?」 「えっと、なんのことでしょうか」 黒髪のリリはイデアの唐突な問いかけにきょとんとした表情で応える。  コンスタンティノープルに入る前に寄港したテッサロニキで拾った彼女のことを、イデアは疑っていた。無理矢理結婚させられそうになったからこの土地から逃げ出したいとエーヴァに助けを求めたリリ。彼女が何者かわからないままエーヴァは彼女を同行者として認め、エーヴァに甘いダヴィデもまた彼女の同行を許すことにしてしまった。 テッサロニキはもともと東ローマ帝国領で、コンスタンティノープルに次ぐおおきな町として知られている。だが、オスマン帝国がコンスタンティノープルを包囲したのと同様にテッサロニキも現在、オスマン軍によって封鎖されている。コンスタンティノープルと異なるのは、現時点でヴェネツィア共和国が支配下に置いており、テッサロニキ自体を独立国家のように扱っているところだろう。オスマン軍はヴェネツィアを牽制する形でテッサロニキを、東ローマ帝国が守るコンスタンティノープルを包囲するように追い詰めているものの、すぐさま戦に入ることもなく、年月だけが経過している。  祖父が自死を選んだティモール朝との戦いで失った土地を回復するため、スルタンは東方を優先したかったのだろう。だが、戦う余力のない東ローマやヴェネツィアを刺激しないために弄した策を前に、イデアは複雑な表情を浮かべる。  その横顔を凝視していたリリは、もしかしたら気づいていたのかもしれない。イデアがオスマンの人間だということに。「……染めている、ってわかっちゃいますかね?」 「ダヴィデとエーヴァちゃんは気づいていないみたいだけど、まだらな部分があるよ」 イデアが指摘すれば、リリは苦笑を浮かべ、渋々頷く。「コンスタンティノープルに着くまでは、黒髪のリリのままでいさせてください」 「それは構わないよ。こっちもワケアリだから」 「じゃあやっぱり、ダヴィデ様とエーヴァ様は駆け落ちされているのですね!」 「……まあね」 たしかにダヴィデとエーヴァはヴェネツィア

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     みしり、と寝台が軋む音とともに、しゃらん、しゃららん、と鈴の転がる音色が響く。  夕刻に到着したコンスタンティノープルの港からでてすぐのところにある宿屋の部屋が運よくふたつ取れたと手配してくれたイデアに案内されたエーヴァとダヴィデは、ふたりきりになった途端、部屋の隅に置かれていた寝台の上で戯れに興じる。  踊り子と彼女を買った商人、というわかりやすい構図は、ふたりきりになりたいときとても便利である。船酔いでくたびれていたイデアはリリと同じ部屋で早めに休むと言っていた。リリはエーヴァに何かあったら呼んでくださいねと微笑んでいたが、心強いダヴィデがいる限り、問題はないだろう。「ふだんは人が多い町だと聞いていましたが、今日はずいぶん少ないのですね」 「そうだな。お忍びで敵国のスルタンが来ているんだ、物好きでもない限り、こんな時期にコンスタンティノープルへ入る人間は少ないのだろう。まぁ、命知らずな商人は例外だろうが……」 東ローマ帝国の要の砦、貿易で潤う港町、コンスタンティノープル。ムラト二世によって六年近くオスマン帝国に包囲されているものの、未だ支配下におかれていないのは、先代スルタン、メフメト一世が親東ローマ派だったからといわれている。「たしか、ルクリエンテももともとは東ローマ帝国と懇意にしていたんですよね……オスマンに寝返るまでは」 エーヴァの祖母、エヴァンジェリンの言葉を思い出しながら、エーヴァは溜め息をつく。物憂げな表情を浮かべるエーヴァを見て、ダヴィデは小鳥が啄むような接吻を、淡い紅色した唇へ贈る。「――んっ!」 「けれど、彼らが生きて選択したから、俺はいま、こうして目の前で愛するエーヴァを独り占めできている……そうだろ?」 「ダヴィデ……」 もしも、などという過去は存在しない。  ダヴィデが彼女の出生の秘密を知ったところで変えられる現実は何一つないが、そのことで苦しむ彼女を救うことなら可能だと、力強く言葉を紡ぐ。「エーヴァ。俺の子どもを生んでくれ。瞳の色が何色になろうが、俺は恐れない。子どもの瞳が何色であろうが、幸せにしてやればいい。そうだろう?」

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     コンスタンティノープルの港へ一足先に降り立ったザイードは、自分が訪ねようとしていた人物に先を越されて焦っていた。  黒一色の地味な服装であるにも関わらず、彼は凛としており、野性的な美しさを醸し出している。そう、かつてのスルタンで、ザイードを大賢者として重用していた典雅王、メフメト一世のように。  ムラトの兄、アフメトことイデアが彼によって国を追われて七年が経とうとしている。十七歳で即位したムラトはザイードが離れている間に二十四歳の、逞しい青年へと成長していた。黒い衣からのぞく浅黒い肌に、彫りの深い顔立ち、イデアが母親似であることを考えると、彼はまぎれもなく父王譲りだ。  思わず魅入ってしまったザイードを前に、ムラトはふふ、と妖艶な笑みを浮かべる。その姿だけは、兄のイデアとそっくりで、ザイードの背中にぞくりと悪寒が走る。「驚いているみたいだな。ザイード」 「……ムラト様、なぜ、ここに」 海風に乗って届くのは潮の香りだけではない。異国から渡ってきた香辛料の独特な香りと不吉な血の匂い。  ザイードは血の香りが目の前の高貴な人物からすることを悟り、愕然とする。「銀の瞳を持つ白銀の姫君が、兄上のところにいるのだろう? お前がけしかけたのだろう? 大賢者たるもの、修道院でおとなしく余生を過ごして朽ちていけばよかったものを……」 ザイードよりも先にムラトのもとに向かった人間がいたのだろう。それゆえ、彼は真相を解明すべく、港までお忍びで来ていたということだろう。お忍びとはいえ、町の人間は彼がただ者ではないことに感づいているようだが。「誤解です、ムラト様。わたくしめは、ただ、反逆を企てたアフメト様から逃れ、貴方様に白銀の姫君を捧げるべく」 「それが余計なことだと言っている。一度は許したが、二度目はないと言ったはずだ」 「ひっ……」 シャキン、と金属の音とともに血を吸ったナイフがザイードの前に現れる。かつての大賢者は自身に危機が迫っていることからどうにかして逃れようと策を練るが、ムラトは彼の思考を見切ったかのようにナイフを振るう。  サクッ、と頭を覆っていた頭巾が切り裂かれ、美

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       * * * 「餞別に、むかしの話をしてやろうぞ」 「むかし?」 イデアにコンスタンティノープルへ向かうと言われたのはつい先ほどのことだ。泳がせていたザイードが勝手に動き出してしまったと申し訳なさそうに報告され、事態が急展開したことを知った。  ダヴィデは今朝、グーリーと大修道院に付属している図書館に寄ると言って明け方エーヴァを愛したっきり帰ってこない。イデアはイデアでマイヤを説得しに行ってしまい、エーヴァはひとり手持無沙汰な状態だった。 そんなときに現れたのが、臙脂色の瞳のエヴァンジェリン妃だ。  物音を立てずにエーヴァが過ごす部屋へ入ってきた老女は、唐突にむかし話を語りだす。 かつてルクリエンテ公の白銀の姫君として愛されてきた彼女には、もうひとりの白銀の姫君がいた。「おなじ母親の胎から生まれたというのに、十も年下の妹は弱々しくて、放っておいたら死んでしまうような子どもじゃった。だが、わしがかつて持っていた鉛色よりも輝かしい、銀色の瞳を持っておった……」 エヴァンジェリン妃の独白を、エーヴァは無表情で受け入れる。  彼女がいま見ているのはエーヴァではない、エーヴァを産んだ自分の娘、アリーズに対してだから。  彼女の母親もまた、銀の瞳を持っていながら、ふたりの銀の瞳の娘を産み落とし、二人目を産んだ後、淡い青色の瞳へと変化したのだという。「ひとり女児を産むだけでは、瞳の色は変わらないのですか?」 「さぁねぇ。ただ、母上は妹を産むまで銀の瞳をしていたが、父上と終始仲睦まじく、幸せに暮らしておったよ……」 遠くを見つめるように話をつづけるエヴァンジェリン妃は、不思議そうな表情を浮かべるエーヴァを見て、臙脂色の視線を彼女の双眸へと戻す。「銀色の瞳の妹は誰からも可愛がられていた。わしの夫、ファビアヌスですら、もうすこし年を取ったら妻に迎えてもいいとおぞましいことを口にしていたわい……わしがアリーズを産むすこし前の話さ」 「……そうだったのですか」 「だがなぁ、その美貌が、オスマンのスルタンのお眼鏡にかなっちま

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       * * *  空中都市のなかでも唯一、山の下にある街から建物の姿をのぞむことが可能な大修道院メテオガランバには教会と図書館が併設されている。切り立った崖の上にある広大な石造りの建物は、中に階段がひとつしかない小ぢんまりとした尼僧院ヴァルラと異なり、建物を繋ぐ橋や階段などが周囲に張り巡らされており、ひとりで入ったら迷子になってしまいそうな錯覚に陥る。  尼僧服から修道服へと着替えたダヴィデは案内してくれたグーリーとともに膨大な書物が眠る図書館のなかにいる。「お前は迷わなかったか」 「マイヤを迎えに行くとき、いつもここに世話になってるからね。図書館も何度も通っているよ」 「じゃあ、どこにどんな本があるかも知っているのか」 「まあね」 小声で話しながら、グーリーはダヴィデが探すルクリエンテ公国に関する書物がありそうな棚へ歩を進めていく。ダヴィデの周りには似たような黒い服を着た修道士たちがちらほらいたが、書庫の奥へ進むにつれて、ひとの数は減り、やがて誰もいなくなってしまう。  湿った土の匂いに似た、古い紙の匂いが漂う書棚が連なる先に、ぽつねんと机が置かれている。グーリーが腰掛けたら壊れてしまいそうなちいさな木の椅子の上にも、誰かが置き忘れたであろう書物が積まれていた。「……誰もいないな」 「この辺りにあるのは過去の個人的な日記や貿易の記録ばかりだから、いまさら読みふけるもの好きもいないんだろうよ」 「ふぅん……このあたりだな」 エーヴァにメテオガランバの図書館でルクリエンテ公の記録を探ることを伝えたところ、「それはいい考えですね」と笑って見送ってくれた。今朝もつきっきりで傍にいたため、腰を使いすぎた彼女は起き上がることができなかったが……  脳裡によぎった彼女の媚態を追い出し、ダヴィデは一冊の書物を手に取る。表紙に文字は綴られていないものの、なかにはエヴァンジェリン、という女性名や銀の瞳、という記述がされている。「――うそだろ……」 「どうした」 「……いや、グーリー……呪いを解く方法は、確かにある」 この書物には男

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       * * *  熊みたいな屈強な体つきをしているにも関わらず、グーリーは繊細で優しいひとだ。  マイヤのような裏で醜い復讐の念を燃やしているよう人間にも、森に暮らす穏やかな熊のように接してくれる。ときに厳しく叱ってくれるときもあるけど。「……そろそろ離縁されちゃうかもね」 だけどようやく胸に秘めていた野望が叶えられるのだと、マイヤはぶんと夫の影を振り切ろうとする。「こんなところにいたの」 「イデア……」 厨房の片隅で作業をしていたマイヤは驚いて手にしていた薬草の束を鍋のなかへぼちゃん、と落としてしまう。ツンとする香りと甘ったるい香りが混ざり合い、イデアは鼻をつまみながらごめんごめんと首を振る。  マイヤが落とした薬草の束はインドから香辛料貿易でともに渡ってきた貴重な薬草、アシュワガンダだ。  飲めば馬の力を手に入れることができるといういわれを持つ滋養強壮のハーブ、アシュワガンダはほろ苦く、黒砂糖などと混ぜて服用することが多い。マイヤはザイードに命じられるまま、白銀の姫君を堕とすための媚薬を深く考えることなく作っているのだろう。まさかイデアに服用させてエーヴァを犯させるなど考えもせずに。  鍋に入っていたのは女性の生殖器官を若返らせる百本の根を持つ植物、シャタバリのようだ。砂糖水で煮込んだものはシャンタバリカルパと呼ばれている。乾燥させたアシュワガンダの薬束をすこし混ぜてしまったが、薬草同士が喧嘩をすることはないだろうと束を拾い上げたマイヤは大丈夫、とこくりと頷く。  調合された媚薬は食事と一緒にエーヴァのもとへ届けられるようになっている。ダヴィデによって毎日のように愛されている彼女がこの媚薬を飲んだら、思考能力を奪われ、いままで以上に彼が与えてくれる快楽に溺れることになるだろう。彼がスルタンと謁見し、指輪を返すという危険な賭けに出ることを知ることなく。 英国商人だったダヴィデはコンスタンティノープルでの貿易も経験しているようだ。イデアの依頼を前に彼は快く頷いてくれた。ザイードに隠れてスルタンと接触することが叶えば、ザイードとマイヤの野望を潰すことは難くないだろう。イ

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